創立者初代堀野哲仙の理念
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建学の精神
【 一、全国悪筆者皆無の短期上達を目的とする 】
【 一、書道は自分の個性、長所と短所を発見する「心の鏡」である 】
【 一、書道を通して真・善・美の心を探求し、世界平和に貢献する 】
【 一、教えは学びの半ばなり 】
「書道を世界の芸術へ!!」
時は終戦直後、連合軍の辞書に「書道」という字句が無かったため、精神修養である書道は神風特攻の精神を育てた危険な魔術である!という誤解を受け、教育の課目から除去。書道界の責任者であった哲仙も公職追放の迫害処分を受けました。
次第に「書写能力の向上に必要な範囲で指導してもよい」という許しを受け、追放も解除されたのですが・・・。
「このままでよいのか???」
「書道が芸術である限り、世界共通のものでなければならない。書道は常にぶっつけ本番。修正ができないのである。ウソとか飾りのない真実の姿を如実に表現するのが書道である。これを世界中の人々に理解してもらい、その国民性の短所と長所を心と心で触れ合い信じ合った時、永遠の平和が樹立するのである!」と考え、旧来の書道界には帰らず未来を作る選択をしました。
書道を世界の人々に理解してもらうには
①科学的である事 ②誰にでも容易に理解できること ③短期間で習得できること
そのためには日本人は簡易に文字が書ける!という実証を作っていただかねばならない。また、戦後不足していた書道の先生を早急に作らねばならない。と強く強く願い、哲仙の革命的な指導法に心酔した同志達と共に書道団体を作り、その後学校が立ち上げられる運びとなりました。
①設立当初は「書道専門学校」 ②初代堀野哲仙揮毫写真
日本人として初めて「書道」をアメリカに伝える
「書道を世界に伝えよう!」
昭和51年10月米国フロリダ州フォートローダーデル市のアート・インストテュート美術学校において初めて書道のデモンストレーションを実施した。初めてのことだったので、地元の新聞やテレビ局が多数取材に来ており、折りしもフォード対カーターの大統領選真っ只中にも拘わらず、TVは午後7時からのゴールデンタイムで大きく取り上げ、フロリダタイムス紙をはじめ数社が1面記事の中で取り上げてくれた。
デモンストレーションの方法は、漢字には楷書、行書、草書、隷書、篆書の5体があり、夫々の文字には意味がある旨を説明し、更に日本は平仮名、片仮名の文字があり、それぞれ使い分けていることを話した上で、篆書(象形文字)を4文字書き、これを書体で変化していくことを見せ、作品にすると自分の心の表現になることを書いて見せた。
美術学校の生徒は書体によって文字が変化していく事を何度も何度も食い入る様に見つめ、作品にした時の流れる様な筆の動きには驚きの声を出していた。 そして、この様な技術を身に付けるためには基礎の修得がとても大切であることを説明し、その基本が「三」であることを話し、大盛況のうちに幕を閉じた。
10年後、長女がマイアミに移住し書道を教え始めた際「以前テレビで見たことがある!」と習いに来た人がおり、テレビで見た人物は哲仙のことだった。「そうだ、たとえ外国人であっても書道は理解できるのだ!!」このことは哲仙の自信となったに違いない。
正統派書道の第一人者。
中国全土で国賓待遇の扱いを受ける。
「日中友好の掛け橋に!!」
昭和13年、哲仙は「日満支三国府後援親善書道展覧会」で最高賞を受賞し、翌年、総理から展覧会委員を任命されました。(この組織が戦後「日展」に引き継がれたが、様々な理由から哲仙は参加を辞退した。)
これに刺激された教え子たちが「日本と中国の子供同士で書の交流をしたい」と企画したことから、「日満華親善児童作品交換会」を実施しました。 この交換会は3年間続きましたが、戦争の激化で中止。中国から送られてきた作品の一部が返却することができないまま、自宅にずっと預かっていました。・・・それから45年がたった頃「日本の書法について講演して欲しい」という中日友好協会からの招待があり、作品のことを伝えると「ぜひ送り返してほしい!!」ということでトントン拍子で里帰りが決定。
戦争があったにも関わらず長年作品を大切に保管していたことに友好協会は衝撃を受け、深く、深く感謝されました。また、中国書法家協会主席啓功先生をはじめ幹部の前で堀野書法を講演した際は、堀野哲仙は王羲之の流れを組む正統派の第一人者だ!という最高の評価を得ました。
これをきっかけに中国各地での書法展、友好協会幹部の方々との交流を開始し、哲仙は国賓待遇の扱いを受けるようになりました。「日本の書聖」と言われ、各地で厚い歓迎を受けたのです!
これだけは忘れてほしくないのですが「書」は中日友好の最も重要な分野とされ、周恩来首相がとても、とても大切にしてきた芸術です。日中友好の掛け橋は書道といっても過言ではありません!
㊧五十四母字結構法と書法概論の講演㊥、㊨啓功先生との書法交流
㊧作品交換をした児童たちと㊨初代哲仙米寿展に於いて。開幕式・歓迎宴・答礼宴に王光英氏が出席
●中日友好協会の幹部たちと
①一番右、現理事長 ②右から二番目、林林氏(中国人民対外友好協会副会長) ③右から四番目、沈鵬氏(中国書法家協会主席) ④右から五番目、王效賢氏(周恩来・田中角栄の日中国交回復会議の通訳、中国人民対外友好協会副会長) ⑤右から六番目、現校長 ⑥右から七番目、王光英氏(中国人民政治協商会議全国委員会副主席) ⑦左から六番目、創立者初代堀野哲仙 ⑧左から五番目、孫平化氏(中国日本友好協会会長) ⑨左から四番目、故二代目堀野哲仙 ⑩左から二番目、広岡純氏(理事長友人・元学研中国室長) ⑪一番左、はん汝光氏(中国人民対外友好協会 対外文化宣伝部主任)